第一篇:明智光秀生死之谜

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(本文末尾附图:明智氏的日光东照宫)
本能寺之变的真犯人,以及明智光秀生死之谜
(注意:本节内容未经作者允许,严禁网络引用。)
以下为历史学者之观点,非本书作者原创。后附文章未经允许请勿转载。
如果你在日本居住,会经常听到人们谈论以下种种事情:源义经其实就是成吉思汗、上杉谦信原来是位姬武者、丰臣秀吉并未能杀死明智光秀、德川家康其实有两个人、天草四郎时贞原来是丰臣秀吉的孙子,等等。这些都是无稽之谈吗?如果你在日本大学就读,问随便问一位日本教授好了。想必,你的教授会给你很有趣的答案。
本书以国际主义的立场写成。书中既有日本的真实历史,也有揭露日本丑陋的侵略史。所以,作者并不关心受不受欢迎的问题……啊,不谈这个,本章的主题是:明智光秀的生死之谜。至于本能寺之变的真犯人之谜,请看后附关联文章(啊,因未得允许,没有翻译)
本能寺之变,明智光秀杀死了即将统一天下的织田信长。因为这件事情,明智光秀恶名昭彰,在其后的桃山时代成为了禁止议论的人物。一切关于明智光秀的事迹功绩均被抹杀,真到明治维新以后,才有学者开始着手研究他的事情。明智光秀其人一出生便是恶魔化身?他为什么如此受丰臣秀吉憎恶?他为什么要发动本能寺之变?
还有,他真的在本能寺之变后的山崎之战中身亡了吗?
我们来一下,历书中所记载,丰臣秀吉所宣布的明智光秀死因:明智光秀在某村庄附近,被数十个暴民袭击而死。啊,好悲惨!武艺高强的勇士,竟然死在农民之手。这里,可就引出最大一个疑点了哦!当时明智光秀身边有三千骑兵,更有数位武艺高强的忠诚武官(可儿才藏、沟尾胜兵卫等人,他们联手还打不过几个农民?)。再说了,几十个暴民要能有这本事,那等于是桶狭间之战的再度上演。丰臣秀吉,他干嘛不说自己用两根筷子就把明智光秀给夹死了呢?
第二个疑点,是明智光秀的尸体。准确的说,没找到明智光秀的尸体,只找到一个**的脑袋。既然**了,又怎么知道他就是明智光秀呢?难道古代也有DNA鉴定术?对于这颗人头,历史学家的看法是不足取信。很可能,是丰臣秀吉为安定军心的捏造。历史上这种事情,其实时有发生。
正确的说,明智光秀死于丰臣秀吉之手这种说法,最大的支持点仅是明智光秀这个名字没有再次在历史上出现。然而,真的再也没有出现过了吗?
现代,历史学家已经找到了以下证据,证实明智光秀不但活着,更积极参与过德川幕府的统治。
明智光秀幽灵现身之证据一:比叡山某寺庙中留下记载,明智光秀于庆长二十年曾经在此寺进行过‘奉寄’。奉寄的石灯笼留存至今,上面刻的是:「慶長二十年奉寄進願主光秀二月十七日」。
明智光秀幽灵现身之证据二:大阪本德寺中立有明智光秀的牌位,上面记有「当寺開基慶長四巳亥」字样。换句话说,庆长四年明智光秀曾经去该寺进行过奉寄。由于本德寺中存有明智光秀唯一一幅肖像画,所以该证据较为可信。
以上提供的年份,庆长四年是关原大战的前一年,庆长二十年是大阪夏之战役的年份。明智光秀分明早就死去,如何会留下奉寄的资料?作者我从小怕鬼,只觉身边阴风飕飕……庆长二十年的说?明智光秀是不是象孙猴子一样长生不老的?怕怕,日本学者们提供的最新考证结果:这位明智光秀他竟然……最少活了一百二十岁!!!这家伙,难怪人家都叫他‘天下第一恶人’,真够恶的(语出于一名心理不平衡者)!
然而史实就是史实。不能忘记,本书的宗旨就是发扬史实。所以即使有人真的回到了四百年前的古代,我也只好照写不误;明智光秀真的参加过吉田郡山大会战、严岛之战、桶狭间之战……我也只好照写不误;一五八二年以后明智光秀去了哪里?做了什么,我也只能在书中,老实的照写不误啦!
不过在本章,我们暂时还是以谈史实资料为主。玩过游戏‘信长野望’的人也许知道,德川家有个神秘的武将叫‘天海’。游戏中关于天海的介绍大概是这样的:此人被认为就是明智光秀……(原文我早忘了,信长的第几部我也忘了,肯定是有写)。
不错。史学家通常的意见,德川家的这位‘黑衣宰相’,就是明智光秀本人。当然在本书的正文中,还会对德川家的事情提供新的说法。
我们先来看看天海是谁。天海僧正,此人前半生完全不可考。关原大战之前突然出现在德川军中,毫无战功、碌碌无名的他就这么成了德川军的副统帅。大战之后,更是掌握了德川家的军政大权,协助开创德川幕府,自己则受朝廷封赏,平步青云的变成了‘僧正’(僧正是佛教最高官位,全国佛徒的最高领导者)。
天海就是明智光秀的说法,并不只因为他们同样是少有的文武全能之帅才。我们说明智氏和德川氏共同治理天下,还有以下依据:
第一,德川幕府第三代将军家光,很可能是明智光秀的孙子。为什么这么说呢?‘家光’这个名字本身有问题。名门之子的名字都是拜领自家族中近亲的名人,德川家所有同辈人的名字都可以考证来源,唯独德川家光的‘光’字无源可证。严肃的史学家也无法反对这种观点:德川家光的‘光’,拜领自明智‘光’秀。这样看来,德川家光的‘母亲’一直不把他当亲子看待,时常嚷着要废他另立弟弟为将军,也就不足为怪了。当然,说德川家光是明智氏血脉,我们后面还有证据,请看下去。
第二,日光东照宫,这个著名的宫殿世人都知道吧,它是德川家第三代将军德川家光为纪念祖父所建的。这个祖父,通常认为是德川家康。可是奇怪的是,德川家康在别处另有墓**。那么东照宫里供奉的灵骨不是德川家康?或者,德川家光的祖父根本就是另有其人?想了解这件事情,我们一起走进东照宫去看看就清楚了。呀,这是一座伟大的宫殿!咦?宫殿里面怎么隐约到处都有明智家的家纹?仔细看好哦,阳明门前的武士为什么是明智武士?阳明门外为什么有桔梗纹旗?不得了,连钟楼上也找得到明智家纹,外面的瀑布叫什么?‘明智平’!更要命的是,在德川家光的‘祖父’德川家康的纳骨堂外,在东照宫的正中央竟然立着鹤和龟的标志性雕刻。鹤是德川氏的标志物,出现在此关不奇怪,可是龟是什么?龟……这不是明智氏的标志物吗?还记得本书正文中提过的明智光秀的童谣诗吗?“鶴と亀がすべった”!史学家是这样理解此诗的:“すべった”有滑倒的意思,也有统治的意思。鹤是德川氏的标志物,龟是明智氏的标志物。如果理解成鹤和龟共同统治,那不就是德川和明智氏共同治理天下的意思吗?(这些人的语文成绩一定比历史成绩还好,这么会咬文嚼字,本书作者可是甘拜下风!)
第三,德川家光的乳母是春日局。春日局是谁?小名阿福,她乃是斋藤利三的女儿,天下第一恶人明智光秀身边最亲近的女人之一。史书记载,当春日局与天海初次见面时,平伏于前称:「お久しゅうございます」(大人好久不见)。喂喂小姐,你是不是和我一样才学会日语?这可不是第一次见面时应该说的话呀!不可思议的是,德川家光竟然把春日局当成母亲一般奉养尊重。春日局经常参与政事、发表意见,俨然一副德川幕后领袖的模样。在她死的时候,德川幕府更是下令举国服丧。瞧瞧,除了天下之国母,世上还有谁配享受这个等级的待遇?许多史学家于是坚持说道,春日局本来是就德川家光的生母嘛……
总结之,德川幕府是由三个家族共同统治的,这世人皆知。实际上,把它理解成明智氏和德川氏的共同统治,似乎更加准确。中央幕府和两川体制(中央是明智,两个德川氏),这怎么有点象毛利家族的两川体制?哈哈~~。
以下为引文,太长了请喜欢历史并且有耐心的人看吧。其他人可以轻轻飘过了。
明智光秀は戦国の世を生き抜き天下の行方を見守った!
これは私Minstrelが史実、異説、風説、伝説等を集め、整理し、推理を加えて考察した歴史遊びです。錯覚したり鵜呑みにして勘違いを引き起こしても何の保証もありませんのでそれぞれの解釈、遊び心次第でお楽しみ下さい。楽しくなくても、これまた何の保証もありません。
前書き
過去という永遠の闇に消えてしまった事実がある。この永遠の闇にライト当て、わずかに見えたものを組み合わせ判断したものが歴史である。闇すべてを照らすことは出来ない。過去に行けばいくほど深い闇に閉ざされている。組み合わせ方は他にないだろうか?他の判断はないだろうか?ライトに照らし出されたものを見てみよう。意外な歴史が浮かび上がるかもしれない。その判断は個々にお任せしたい。
本能寺の変
天正10年6月2日払暁、破竹の勢いで天下を握りつつある織田信長が部下である明智光秀の謀反により京都・本能寺に倒れる。
羽柴秀吉ら信長の部下たちは各地に散り、信長自身もわずかの手勢しか連れておらず、光秀は信長打倒の絶好の機会を生かしたのである。だがこの後、毛利に苦戦中だった秀吉がアッという間に和睦をまとめ、京都に戻り、明智勢と合戦、光秀はわずか10日余りで討たれてしまう。最期は農民に竹槍でつかれるという悲惨なものだった。光秀を討った秀吉がやがて天下を取る。
本当に光秀が犯人か?
言うまでもなく、本能寺において主君を討ったのは明智光秀である。ほとんど常識である。しかし、本当にそうだろうか。いくつか疑問点を挙げておく。
事件は6月1日夜明け前に起こっている。時刻は午前4時頃で、出火炎上したのは午前7時から7時半と推定される。
ところが光秀が上洛したのは午前9時頃という説がある。つまり、事件当時光秀は現場に到着していなかったというのである。ならば光秀はどこにいたのだろう。これに関しては残念ながら正確な史料は残っていないのでわからない。
事件の3日前の5月28日(この年の五月は29日まで)に愛宕山に登っていることは確かである。一般には翌日に下山したように思われているが、権中納言山科言経の日記『言経卿記』によるとこの日はどしゃ降りで下山は不可能であったという。従って、下山は6月1日になってからということになり、この後、丹波の亀山城に戻り、1万3千の兵を率い、2日早くに京に入るのは不可能だと思われる。
これについては真相はよくわからない。が、本能寺の変についてナゾが多いということは言えるだろう。
明智光秀の動機
明智光秀は、織田家に中途採用された人物であるが、頭がよく、インテリで、同じく中途採用の秀吉と出世街道を爆進中であった。
主君・信長を討った本能寺の変は光秀の個人的な恨みによるものであるとよく聞くが、果たしてそうなのであろうか。古来から信長襲撃の引き金として語られる話しは一つしかなく、それは家康の接待役を務めていたが、信長が満座の中で光秀に屈辱を与えたために面目を失ったというもの。これは江戸時代の入ってから成立した川角(かわすみ)の『太閤記』にのみあるという。もちろん川角『太閤記』は史料価値のあるものだが、これだけでは説得力に欠けるだろう。戦国時代に関する情報を得る際、そのほとんどは江戸時代以降に書かれたものであり、比較的近い時代に書かれたものもあれば、それらを基に書かれた二次的な史料、単なる小説もある。全部を鵜呑みにすると混乱を招くだけで、原典の分析を伴った研究が必要である。しかし実際は様々な史料が混ぜこぜになって使用されている場合が多く、そのため多くの説が乱立することになる。(このページのものもその一つかもしれないが)
生母を見殺しにされた恨みが直接の原因であるとも言われている。だが、信心深く、慎重で頭の良いな光秀が一時の**に任せ、安直な行動に出るだろうか。用意周到な光秀が、多少の計算違いがあったにせよ、その後アッという間に討たれてしまうようなことをするとは私は考えにくい。だが事実、光秀は行動を起こした。
実は明智光秀という人物が歴史上に登場するのは40歳を過ぎてからである。それ以前、どこで何をしていたのかは全く不明なのだ。土岐氏の流れの出身で、40歳を過ぎてから朝倉家や将軍足利義昭に仕えた後、信長の部下になっている。信長に仕える以前でわかっているのはこれくらいなのだ。従って、年齢もハッキリした数字ではない。
背後関係
頭が良く、計算高い光秀が一人無謀な策に出たのか?いやそうは思えない。光秀の背後から糸をひく人物がいたのではないだろうか?単独行動ではなく、光秀を納得させ行動させた人物がいたとは考えられないだろうか。
もし、光秀の単独行動であるならば、もっと事件前に色々な調整をしたはずである。各地に信長に敵意を持つ勢力も多かったし、朝廷や公家とも通じるはず。細川親子や他の信長の家臣たちに対する働きかけも十二分にあったはずだ。信長にバレることを恐れたのかだろうか・・・。
本能寺襲撃の最終決定は直前のことであったようだ。しかしこれは光秀の優柔不断さを物語っているのではない。慎重さを表わしている。当時、戦さの直前に歌会を開く風習があったのだが、光秀も愛宕山で歌会を開き、次のような歌を詠んでいる。
「時は今あめが下しる五月哉」
「時」は「土岐」、「あめ(雨)が下しる」は「天下」を表わし、土岐氏が天下をとることを暗示しているのだ。光秀の心はこの時に決まっていたと思われる。既に何者かとの打ち合わせは完了していたのではないだろうか。
事件の背後関係を考える場合、事件によって最も良い思いをした者があやしいと考える。本能寺の変で最も良い思いをしたのは・・・?
羽柴秀吉
まっ先にピンと来るのは羽柴秀吉だろう。秀吉と光秀とは出世争いのライバル関係にあった。事件当時、秀吉は中国攻めで毛利と戦い苦戦中。なんとか備中高松城を落としものの、信長に援軍を要請し、毛利本隊との決戦を間近に控えていた。要請を受けた信長は光秀とともに秀吉の援軍にむかう途中だったのだ。
このような状況下、本能寺の変を知り、決戦間近で意気の上がる目前の敵・毛利と和睦し、新幹線もクルマもない時代に中国大返し、実質5日間で京都に戻り、疲れをとる間もなく戦上手の光秀と決戦、これに勝利する。あまりにも出来すぎた話しではないだろうか?移動距離は1日約40キロの計算になる。フルマラソンを5日連続で走った直後に生死をかけた決戦に挑むわけだ。現実的な話しとは思えない。
もし、光秀と秀吉が通じていて、信長襲撃を最初から知っていたとしたら・・・?秀吉も信長を恐れていた。恐怖の大魔王と呼ばれた信長が死ねば天下は秀吉に転がって来るかもしれない。事実、この後、秀吉は天下人となった。光秀と共謀したのは秀吉だろうか?
だが共謀相手の光秀と直後に戦いになっているのはどうしたわけか。信長襲撃は打ち合わせ通りだったが、秀吉は光秀を裏切り、最初から信長の次は光秀を討ち滅ぼすつもりだったのか。秀吉の方が一枚上手だったのかもしれない。だが、それにしても毛利と決戦間近であったことも事実で、もし毛利との和睦に失敗していれば、光秀が天下人である。秀吉説はどうも辻褄が合わない。
天皇家
昔から天皇家はその権力が危うくなると、陰謀を企てている。古くは長屋王の事件があり、源頼朝に対し義経を操ったり、足利尊氏に対し新田義貞を操ったりしている。江戸時代幕末にも似たようなことがあった。天皇家の陰謀の場合は、それが陰謀とならずに認められてしまうところが怖い。光秀は天皇家の陰謀にはめられ、見捨てられたという線も考えられる。皇太子の誠仁親王はなぜか変後に自害している。光秀と結託していたのだろうか。
信長はすでに足利将軍家を排除しているし、自らが天皇、またはそれに変わる絶対的権力者になろうと考えていたかもしれない。織田家は源氏の流れではないために将軍にはなれなかったという考えもあるが、秀吉は貴族でないのに関白になっている。家康も源氏ではないのに源氏の子孫になってしまった。信長が将軍になる以上のことを考えていたとしても全く不思議ではないだろう。当時、天皇や公家が信長に対し緊迫感を持っていたことは事実であろう。かたや光秀は天皇を敬う気持ちがあったのではないか。
だが私は乱世に生きる武将である光秀は現実的な損得の計算もしたのではないかと考える。自分が捨て石になり天皇を守ることに意義を感じただろうか?天皇黒幕説はなかなか魅力的に感じるが、ここでは結論を出さないでおく。皆さんのご意見もお聞かせ願いたい。
その他の容疑者
細川親子がアヤシイという話しも聞く。幽斉と忠興である。確かに細川氏はたいした功績もあげていないのに後年、大大名になっている。
また疑うなら濃姫も疑える。信長と濃姫は政略結婚にすぎない。濃姫は死後、なぜかどの寺院からも埋葬を拒否されている。これはどうしたことだろう。
徳川家康
さて、もう一人アヤシイ人物がいる。徳川家康である。実は私が黒幕とにらんでいるのはズバリ、家康だ。他の容疑者も一人ずつ吟味するのが筋だが、長くなりそうなのと本題に一直線に進みたいのとでここでは触れないこととする。興味のある方をそれぞれチェックして見てほしい。
家康は長男を信長に殺されたようなものであり、恨みはあるし、強大な信長との同盟関係は名ばかり、実際はまったく逆らえず、半家臣状態である。つまり動機はあるということだ。合戦の時の陣や岐阜城、安土城で家康と光秀が密会する機会はいくらでもあっただろう。
本能寺で信長が討たれた時、わずかな手勢の家康は堺見物中だった。事件を知った一行は光秀に襲われるからと、街道ではなく伊賀の山中を抜け、伊賀忍者の助けをかりて領地に帰っている。これはヤラセではないだろうか?根拠は次の項で述べる。
家康が絡んでいないように見せるために少ない手勢で堺見物をしたが、全て計算されたものではないだろうか?家康にとって唯一計算外だったのが、秀吉の「中国大返し」だったのでは?と考えてみる。
土岐氏
光秀の出自は土岐氏一族である。土岐氏といえば源氏の流れを持つ名門。戦国期には岐阜(稲葉山城)をおさめていた。だが下剋上の世、土岐氏は斎藤道三にその座を奪われてしまう。信長の正室の濃姫はマムシの道三の娘。つまり光秀の宿敵と信長は親戚関係なのである。
光秀の一族はもともとは伊賀の出身である。ここに矛盾がある。光秀の手を逃れるために、家康は光秀ゆかり地である伊賀を通り、攻められるどころか守られて帰ったというのだ。家康と光秀が裏で通じていたことはここに見い出せるのではないだろうか。
土岐氏は斎藤道三に城を奪われた後、武田氏や松永氏を頼っていたが、江戸時代に入ると所領を安堵されている。謀反人・光秀の出であり、家康と同盟関係の信長の敵にあたる土岐氏であるのにもかかわらず。江戸幕府は何を考えているのだろう。
同時に江戸時代には土岐氏や光秀の祭り(名前を忘れてしまった。どなたかご存知の方、教えて)を許してもいる。信長殺しの光秀は謀反人として後世に残るはずが、江戸幕府では容認していたようにさえ見える。光秀について悪く書かれた文書のいくつかが幕府によって消されたという話しもあるそうだ(未確認だが)。天下を取った徳川家と光秀の間には何やらアヤシイ雰囲気があるのは確かである。

死んだ光秀は影武者か?
本能寺の変後、うまく逃れたのは家康だけではない。光秀もまたうまくその姿をくらましたという説がある。つまり、秀吉に敗れた後、竹槍に突かれて死んだのは光秀の影武者だったというのだ。光秀は信仰心が強く、信長を排除した後に自分も死んでいいとは考えなかったのではないだろうか。
計算高い光秀は事件後のことも当然考えていただろう。「三日天下」となってしまうほどの無様をさらすことはなかったはずだ。
だが、この後歴史上に明智光秀という人物が登場することは二度とない。秀吉と並ぶ有能な武将は本当に死んでしまったのだろうか。届けられた光秀の首は、すでに腐敗が進み、誰の首か見分けはつかなった。
桔梗塚の伝説
岐阜県のとある町に伝わる伝説がある。
生きのびた光秀は中洞(なかぼら)村(現在の美山町中洞)にかくれ住んでいた。秀吉との合戦に勝てないと見た荒木山城守が身代わりとなって農民に竹槍で突かれ死に、光秀は荒深小五郎(荒木の恩の深さを表わしている)と名のり静かに暮らしていた。関ヶ原の合戦の時に家康に見方しようとしたが、途中厚見郡藪川で洪水にあい死亡。家来の又五郎、忠右衛門、彦太郎、親兵衛らが、遺品を持ち帰り、中洞に墓をたてた。これが今の中洞上ノ街道古屋敷というところにある石の塔と五輪の塔で、墓は桔梗塚と呼ばれ現在も残っている(**)。
光秀の家紋は桔梗である。
光秀生存を暗示するもの
比叡山のある寺に不思議な石灯籠がある。その灯籠には次のような字が刻まれている。「慶長二十年奉寄進願主光秀二月十七日」。つまり慶長20年2月17日に光秀が寄進したというのだ。この光秀とは何者だろう。江戸時代に明智光秀が生きていたのだろうか。
大阪・岸和田にある本徳寺という寺には光秀の位牌が残っている。その光秀の位牌の裏にもまた謎めいた文字がある。「当寺開基慶長四巳亥」とあり、慶長4年に寺の寄進者になっているというのだ。慶長年間に光秀が生きていたことになる。この位牌には他にも文字が書かれているのだが、上から漆が塗られ消されている。何が書いてあったのだろう。何とか解読してみたいものだ。
また、この本徳寺には唯一の光秀の肖像画が残っている。この肖像画にもやはり光秀が生き延びたのではないかと思わせる一文がある。それは「放下般舟三昧去」の部分で、つまり、仏門に入り去っていったということである。光秀はこの寺に来て、仏門に入り、その後寺を出たのだろうか。どこへ行ったのだろうか。本徳寺は光秀の子が住職だったことがあることでも知られている。
光秀が生き延びた可能性を窺わせるものを紹介したが、生き延びたのであればその後の光秀はどうなったのであろうか。肖像画に書かれているように、仏門に入ったのであろうか。最初の推理通り、本能寺の変の黒幕が家康であるなら、どこかに接点が出て来ないとおかしい。
天海僧正
さて、家康の相談役的な存在に南光坊天海という人物がいる(**/東毛歴史資料館)。「黒衣の宰相」と呼ばれた人物である。名前の通り仏教僧だが、関ヶ原の合戦の頃、突如歴史上に登場する。それ以前、どこで何をしていた人物なのかは不明。一応、1536年に生まれ1643年に病没ということはわかっているが出生は不明。一応、1536年に生まれ享年108歳と伝えられているが120歳という説もあり推定の域を出ない。「私は一度死んでいる」という風説も聞くが、この天海こそ光秀ではないかと疑いたい人物なのだ。『明智旧稿実録』では光秀は1528年生まれとされているが、これも確かな数字といえるかは微妙なところのようだ。この定説でも10歳の差もないので、確定的なことが言えない両者の年齢では誤差のうちと言えるのではないだろうか。
『両大師伝記』では、天海は足利義澄(11代将軍)の子とされている。武田信玄の生まれ変わりという説もある。天海はかつて信玄の保護のもと論席を開いている。おそらくこれは天海の家康への献策、具申が信玄の政策と似ているところからのものではないかと思う。
天海は、関ヶ原の合戦の頃に突然家康の側に仕えるようになり相当の信頼を得ているが、これは高僧だからということなのだろうか。同様に家康周辺には何人かの僧がいたが、この中でも最も信頼されているようだ。しかも僧であるにもかかわらず、戦術に優れ、合戦の際には作戦会議で意見を言ったりしている。当時、僧と言えども戦さの知識はあったものだが、それにしても他の歴戦の武将を差し置いて相当な戦さ上手の僧というのも不思議な気がする。
天海の姿は『関ヶ原合戦図屏風』で見ることが出来る。この中では最後方の家康の近くで鎧をつけている。「南光坊」と書かれているので間違いない。僧でありながら鎧をつけているのだ。
何とこの鎧、大阪城に現存している。大小の立派な角があるところなど、敵から身を守るための鎧というよりは、身分の高さや威厳を表わしているように思えるがどうだろうか。
関ヶ原後も天海は家康の最重要側近として重用され、秀忠、家光にも仕えている。天海が家康に仕えただけでは光秀との接点は何もないが、実は意外なところから光秀との接点が出てくる。
春日局
3代将軍・家光の育ての親は春日局であるが、通常春日局には誰でも会えるわけではない。後の将軍になる人の親の立場なわけだから当然だろう。だが、天海だけは例外である。それどころか、春日局の方がへりくだった態度をとっているように思えるふしがある。初めて春日局と天海が会う場面で、春日局は平伏し「お久しゅうございます」と言ったというウワサがあるが、とすると初対面ではなかったことになる。春日局と天海はどういう関係だったのであろうか。
春日局は土岐氏に仕えた斉藤利三の娘である。つまり謀反人・光秀一族の側の人間なのである。謀反人に近い人物が次期将軍を育てる。それも家光の母は信長側の血筋のお江の方である。お江の方にとっては、時と場所を変えて敵に出会ったようなものかもしれない。とても我が子を託す気になどなれなかったであろうと私は想像するが。
この不思議に輪をかけるような話しがある。が、これは後にあらためて述べる。
土岐氏出身の春日局と光秀。もし光秀が生きていたら、当然光秀の方が格上である。天海が光秀であれば平伏するのは当然のこと・・・。
秩父神社
日光東照宮の雛形として家康が造営を命じた秩父神社という神社がある。この神社の拝殿と本殿の幣殿東側面には竹笹を持つ僧侶らしき人物の彫刻がある(**)。飛騨の工人・左甚五郎作と言われるもので、日光東照宮の「眠猫」等も彼の作品と言われている。が、この人物も架空の人物という説が強い。妙見信仰関連の彫刻の中の一つの彫刻にすぎないのだが、よく見ると桔梗紋をつけている(**では小さすぎて見えないが実際に見るとハッキリわかる)。
明智の桔梗である。秩父神社ではこの彫刻以外には徳川の葵紋があるが、この人物だけ桔梗なのである。桔梗の僧侶。秩父神社の造営時には天海の弟子が派遣されていることからも、「桔梗」から光秀を、「僧侶」から天海を連想させる。また秩父神社の南に慈眼寺、その近くに明智寺もあるが・・・?
2代将軍・秀忠、3代将軍・家光の名付け親は天海だが、日光東照宮にはこの時の文があり、斜めに折り畳むようになっているのだが、何と、折り畳むとそれぞれの一字が現れ「光秀」となるのだ。考えすぎかもしれないが、4代将軍・家綱、5代将軍・綱吉に共通される「綱」も、明智光秀の父「光綱」の名から意図的に抜き出したという説もある。
東照宮
風水学的に言って、江戸はかなり良い条件を備えた場所と言われるが、唯一のウィークポイントが北の方角なのだそうだ。ここに徳川を守るものを置けば完璧となる(筆者、風水の知識ゼロのため人に聞いたものそのまま)。こう進言したのも天海である。家康が死に、江戸の北にあたる日光に東照宮を建てる際に指揮したのも天海だ。この東照宮にもまた多くの謎がある。
日光東照宮は日光山輪王寺に隣接していて、家康の遺言を受けた天海らが中心となって、久能山(静岡県)に埋葬されていた家康の遺骸を改葬して祀った絢爛で豪壮な霊廟である。元和3年(1617年)に原型が出来上がり、家康21回忌法要を機会に大改修がなされ、寛永13年3月に完成した。天海は遺言に従い、山王一実神道に則って「東照大権現」という神号を朝廷から貰い受けて日光山に家康を祀るとともに、代々の将軍は「日光参詣」を行うことによって、徐々に神格化していったのだった。
日光東照宮は江戸幕府最後の砦を目指して造営されたものであるとも言われ、天然要害の日光連山の地にもかかわらず構造物に石材を多用している他、装飾品には銅など、鋳造しやすい金属をふんだんに使用し、弾丸に転化できるようにしているという。
さて、東照宮は東照大権現こと家康を祀ってあり、当然ながら徳川家の葵の御紋がたくさん見られる。しかし、陽明門を守る木像の武士の紋はなぜか桔梗である(左**/足の部分)。光秀の桔梗である。さらに、陽明門の前に立つ鐘楼のひさしの裏には隠れるようにおびただしい数の桔梗紋がある(右上**)。実際に見ると不気味なほどである。表向きには徳川だが、密かに桔梗紋が沢山入り込んでいるのだ。これは何を意味しているのだろうか。
東照宮というと日光が有名だが、他にもある。群馬県の世良田にも東照宮がある。世良田というと、徳川という名の発祥の地とも言える場所であるが、この世良田東照宮もやはり天海が作っている。もともと長楽寺の一部だった場所で、天海も住職をしていたことがある。近年、徳川埋蔵金伝説で有名になっているようだ。
徳川家光
春日局の項で少し触れたが、なぜ織田家の血が流れるお江の子・家光を光秀側の人間である春日局が育てるのであろうか。乳母は公募で、春日局の夫である稲葉正成が関ヶ原の合戦で小早川秀秋に仕え、家康勝利に大きく貢献した功績を認められてのものと説明されているようだが、それにしても天下を治める将軍を育てるという重職についたばかりか、この後春日局として絶大な力を持つことになるのである。大奥を謀反人に近しい人物に仕切られていて良いのだろうか。織田家の敵にあたる人物をこれほどまでに重用したことだけでも家康が信長と親しい関係ではなかったことがうかがえるのである。
さて、三代将軍・家光にも謎がある。『東照大権現・大猷院・慈眼大師板絵』(右**)という絵は家康、家光、天海という変わった3ショットが描かれている。家康、秀忠、家光というならわかる。2代将軍がいない変わりになぜ天海なのだろうか。2人の偉大な将軍とともに描かれているというだけで不思議だ。
家光の「家」は言うまでもなく家康の「家」だ。では「光」はどこから来ているのだろうか。まさか光秀の「光」ではないだろう。万が一にも光秀の「光」であるとしたら・・・?そう考えたくなる物証がある。
それは『松のさかへ東照宮様御文』である。家光の親が秀忠、御腹が「春日局」になっているのだ。家光がお江ではなく、春日局(お福)の子ではないかという説は根強く存在する。そればかりか、家光は秀忠の子ではなく、家康とお福の子であるという説まであるのだ。日光山輪王寺奥院にある家光の墓所には家光が使用していたお守りが現存している(右**)。そこには「二世ごんげん二世しょうぐん」と書かれている。家光は家康の二世だというのだろうか。また「東照大権現将軍心も体も一ツ也」「いきるもしぬるもなに事も大ごんげんさま次第」ともある。いずれにせよ、家光が春日局の子であれば、春日局・天海コンビの影が家光に強くつきまとっているのも不思議ではない。
秀忠・お江夫婦が次男・忠長をかわいがり、家光ではなく忠長を将軍にしたがったのはなぜだろうか。後に忠長は家光に命まで奪われている。
少なくとも、陽明門の桔梗紋、謎めいた天海、そして春日局と、謀反人のはずの光秀の匂いが強く徳川の世に残っているということは言えるだろう。
かごめかごめ
さて、突然ここで話しは大きく飛ぶ。童謡の「かごめかごめ」である。日本人なら誰でも知っているあの歌である。昭和36年に出版された全国童唄集『わらべうた』では、この歌の発祥の地を千葉県野田市の愛宕神社(**)としているが、そういえば本能寺の変の前の光秀の連歌会の場所も愛宕神社であった。(私は愛宕神社と「かごめ」を結び付けるものは何も知らない。情報求む)
ところでこの歌の意味をご存知の方はいるだろうか?ご存知ならば教えて頂きたい。謎なのである。一説には天海が残した謎掛けだという。
この唄は江戸時代の『竹堂随筆』という童謡に関する最も古い文献にも登場しているが、現在のものとは少し違うようだ。しかし歌いつがれてゆく童謡に正式なものなどあるはずもなく、わかる範囲内で考えるしかないだろう。
「かごめかごめ籠の中の鳥はいついつ出やる夜明けの晩に鶴と亀がすべった後ろの正面だあれ」「出やる」は「出よう」という説もあるが定かではない。私もこの歌の解読は出来ないが、少しだけ考えてみたいと思う。ここでこれを取り上げるのは、この歌が天海の作とされ、また光秀とも関係がありそうだからだ。
謎解き
まず「かごめ」である。おそらく「籠目」であろう。籠を編んだ六角形のことを言っているのではないか。「籠の中の鳥」は「六角形の中のニワトリ」と考えられる。なぜニワトリかというと、この歌の2番に出てくるからだ。2番があること自体知らない方があるかもしれない。2番もやはりかなり難解である。後で紹介しよう。その前にニワトリだが、ニワトリは古来から時を告げる鶏であった。「時を告げる」は「土岐をつげる」ではなかろうか。つまり光秀(天海)や春日の局ら土岐氏の存在を暗示しているのではないだろうか。
「いついつであう」は「いつ存在を明らかにするのか」ということ。これは「この歌の謎が解かれるのはいつだろうか」とも思えるし、「土岐氏はいつ登場するのか」とも思える。
「夜明けの晩」は方角を表わしていると思われる。「鶴と亀」はいずれも日光東照宮にいる。「すべった」は「統べった」で、つまり「鶴と亀が統治した」となり、「鶴と亀」は「徳川と土岐」ということになるのではないか。天を舞う鶴が徳川で、亀が土岐だろうか。
日光東照宮の中の眠り猫の門を過ぎて奥の院に向かって階段を上ると家康の納骨堂がある。その前の小さな池に鶴と亀がいるのだ。鶴は鍵をくわえている。どこの鍵なのだろうか。
東照宮の中央に「鶴と亀」の彫刻を置いたのも意図的なことではないかと思う。縁起の良い鶴と亀、天を舞う鶴と地を這う亀が一緒にいるということは、天と地が秩序が正しいということだろうか。社殿の配置的には、表門を入ると正面にこの中神庫があり、この軸線をまっすぐ北に延長すると本殿をかすめて奥社を、逆に南に延長すれば参道を経て、江戸を指していることになる。
籠目
「かごめかごめ」を作ったのが「天海=光秀」と仮定し、彼の視点からもう少し考えてみよう。明智家の出は岐阜の可児である。可児から夜明けの方向を見ると日光があり、後ろの正面となる晩の方角はその逆方向になる。あの本徳寺がある方角である。本徳寺を後にした光秀は天海となって江戸、日光に向かったのだろうか。これら全てが偶然とはとても思えない。
家康が葬られたのは静岡の久能山である。久能山から見て鬼門の方角には富士山、世良田東照宮、日光が並んでいる。逆に日光東照宮から見て裏鬼門の方角には天海が祀られ、慈眼堂が建てられている。これも偶然ではないだろう。
また可児と家康ゆかりの久能山、幕府直轄地で経済の源とも言える佐渡金山、明智一族が移動した福井、そして江戸、日光を結ぶと六角形、つまり籠目になる。
ちなみにイスラエルの国旗にあるダビデの紋も六角形のカゴメである。天海のもう一つの名を慈眼大師、フリーメイソンの目を思わせ籠目の六角形とも繋がる。光秀が信長に仕えていた頃、信長の娘婿・蒲生氏の家臣にユダヤ人のロルテスがいた。ロルテスは蒲生の家臣として西洋の会計や測量技術をもたらしたが、光秀はロルテスの影響を受けているのではないか。彼の築城術はここから来ているのかもしれない。この築城術で日光東照宮を建てたかもしれない。東照宮はまるで要塞のようである。
かごめの続き
「かごめかごめ」が徳川家、明智家、天海が絡む複雑な暗号歌である気がして来ただろうか。この歌の続きを紹介しよう。これは当サイトの掲示板に入った情報によるものであるが、信憑性を感じるものだったのでここで改めて紹介する。詩人の谷川俊太郎氏の編による『日本マザーグース』の中で紹介されているらしい。
「向こう山で鳴く鳥は、信心鳥かニワトリか。金三郎のお土産に何もらった。金ざし、かんざし、買ってきた。納戸のおすまに置いたれば、きうきうネズミが引いてった。鎌倉街道の真ん中で、一抜け、二抜け、三抜けさくら。さくらの下で文一本ひろった。あくしょ、あくしょ、一本よ」最後の歌詞には別のものがあり「桜の下で文一本ひろった」から「その文だれだ。金三郎の妻だ。金三郎の妻はさんしょにむせた」と続く。
さっぱりわからない。後で別の人が付け加えたもので何の関係もないものかもしれない。しかし一概にデタラメとも言えなさそうである。「一抜け、二抜け、三抜け桜」は、東照宮の門を表わし、表門、陽明門、唐門を抜けると拝殿に至り、その拝殿には三十六歌仙が桜の彫刻で飾られているのだ。この歌仙のどこかに謎があるのだろうか?
また「向こう山で鳴く鳥」に対応する可能性として東照宮の東南方向には鶏鳴山があるが関係ないだろうか。
現段階で私がわかるのはこれくらいだ。何かヒントをつかんだ方があれば教えて頂きたいものだ。
結びとして
明智光秀が生き延びた伝説は確かに存在する。天海僧正と光秀とのつながりを暗示させるものも多い。だが「伝説」や「暗示」で歴史の定説は変わらない。小さな可能性を示しているだけである。私が結論として言えることは「謎である」。だから歴史は楽しい。
東照宮に程近いところに中禅寺湖や華厳の滝が見える平らな場所がある。ここを明智平という。天海上人は明智平に来たときに「良い名だ。とても懐かしく遠くの事のようだ」という意味のことを言ったという伝説が残っている。
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